2006年07月01日

始めに………1

このサイトの題名と作成意図に関して   
 

 最初の文章を書くにあたって私の内側には熱い血潮が渦巻いている。しかし、それを直接的に表現する訳にはいかないのが現在の自分が置かれている社会的な状況(外側)である。そんな私にとって、このブログのタイトル 「Le Prophetie d'un excentrique」 は非常にピッタリ・シックリ来る語句である。

 「Le Prophetie d'un excentrique」→「変人の予言」。
 元来がフランス語なので正確に表記できないのが少し辛いところではある。
 当初は「遺す言葉」というようなタイトルを考えていた。もう少し格好をつけようと思って「遺言」というキーワードで検索していて発見したのがジュール・ヴェルヌの小説の題名「Le Testament d'un excentrique」→「変人の遺言」。
 これだ! これで行こう! と思って準備を進めていたのだが、やがて「内側」にある熱い血潮が納得しなくなって「遺言」を「予言」に変更する事を要求した。

 そもそも、このブログを始めようと思い立ったのは「ウエブ進化論」という本に感動させられたからだ。あの本を読んで………自分も 「ウエブの進化」の恩恵に浴し「ウエブの進化」に少しでも貢献するようなブログを作りたい、と強く思った事は確かである。

 しかし、私は現在62歳。日本社会に「登校拒否」や「引きこもり」という言葉が存在しなかった50年以上も昔からの引きこもり人間だ。自慢にはならないが私の人生において得た収入の合計は多分100万円に満たないだろう。生活を支えてくれていた父は3年前に他界し、現在は母の遺族年金が頼りであり、その母も脳梗塞で倒れ、何時逝っても不思議ではない状況にある。自分なりの主義から年金には加入しておらず、来る時が来れば従容と「死」に着こうと覚悟している人間でもある。
 それらの事実を隠し通してブログを書き進める自信は持てない。それ故、このブログにとって「登校拒否」や「引きこもり」や「ニート」に関する考察が大きなテーマである事にも変わりはない。
 こんな私が作るブログに許される、そしてピッタリ来るタイトルは、やはり「遺言」系のものだろう、というのが当初の考え方だった。この覚悟に関しては現在も変わりはない。実際問題としていつ何時に更新が停止したままになるか分からないのが、このブログである。その時、私は多分この世からおさらばしている可能性が大きい。もちろん出来る限り生き続ける努力はするつもりだし、このブログ作成もその努力の一端として行っている訳なのだが………、結果として、これが「遺言」となる日が来る可能性は常に否定する事が出来ない。


 又しかし、自分にはタイトルとして「遺言」ではなく「予言」という言葉をメインに選ぶ資格がある事も事実なのだという思いも他方にある。その思いを正当化する根拠として次の文章をお読み頂きたい。→「創造する民衆の時代」
 これは1994年、文芸春秋社の懸賞論文に応募して門前払いを喰らった文章である。この内容が「ウエブ進化論」に述べられている事柄を先取りしているのだ。勿論、「創造する民衆の時代」は素人の素朴な思い付きを元に書かれた単純な文章に過ぎない。けれども、その思い付きの背景には私の40年以上に渡る特殊な体験が横たわっている。そこのところに大きな意味を感じている。

 あの文章を書いてから12年、考えている事の本質は変わらないままに私の引きこもり生活は現在も続いている。明暗どのような形であれ、こういう生活の終わりを告げなければならない時が近づいてきている今、あの時に感じ取っていた近未来社会への予感を研ぎ澄まし、あの時に考えていた内容を洗練し深めてみたいと思っている。時間と事情が許す範囲で、………。

 ……………………………………という訳で、私としては以上ここまで述べてきたような諸般の事情から、このブログのタイトルを「Le Prophetie d'un excentrique」→「変人の予言」とする事にした。ピッタリ・シックリ来るタイトルはお気に入りの服装のように心を安定させ意外なほどの集中を可能にさせてくれるような気がする。

 ……………………………………とは言うものの、正直言って、このブログが成功する確率は高めに見ても1%以下だというのが今の私の感じだし、それは甘すぎる、という感じもしているのだが、………まあ、そんなことはどうでも良い。
 もしも万一ここまで、この文章を真剣に読み進めて来た方がいらしたとして、「創造する民衆の時代」については、どのような感想をお持ちになるだろう? 多分、「やはり…日本社会に『登校拒否』や『引きこもり』という言葉が存在しなかった50年以上も昔からの引きこもり人間……の戯言に過ぎない」………というのが大部分の人々の正直な実感だと思う。


 そういう人々に言いたい。
 あなたは地の底を這い進むように現実の人生を地道に堅実に必死に生きていらっしゃった。その結果として獲得した現在の生活に満足していらっしゃる。いや、満足とまでは行かなくとも納得してはいらっしゃる。……いや、納得する他はあるまい、と考えていらっしゃる。

 この言葉が胸に落ちたあなた方が私の想定している読み手の方だ。あなた方は「目の前の現実」を何よりも大切にし「目の前の現実」の中に生きている。だから、あなた方を「現実人」と私は呼ぶ。そういうお前は何なんだと問われれば「非現実の中を彷徨っている『非現実人』です」と答える他はない。



「非現実」とは現実化するには余りにも危険であったり困難であったりする夢や希望や怒りや憎しみや計画、……というより、それらの源である心的エネルギーの塊というようなものの総称だ。その「非現実」に捉えられたまま現実の世界に戻る事が出来なくなってしまった者は自分の事を「非現実人」と称する他はないだろうが、……25歳の冬に生じた或る内的体験を契機として『非現実』が私の生きる道になってしまったのだ。

 ところで、
 人は誰でも心の内の底の底に「非現実」を抱えて生きているという。自分の内にある「非現実」との関わり方は人様々だ。だから「現実人」と「非現実人」との境界は曖昧だと言えば曖昧なものではあるのだが、………
 それでも「非現実人」と「現実人」の間には越すに越されぬ壁がある。その壁を乗り越えるには二つの途がある。一つ(A)は「非現実人」が自分の内にある実感を捨てて「現実人」の実感に寄り添うという途であり。もう一つ(B)は、逆に「現実人」が自分の実感を捨てて「非現実人」の実感に寄り添うという途である。

 (A)の途とは、一般的に言う「社会復帰」の事であり、(B)の途とは、「非現実人」による「社会変革」の事である。コロンブスやルターは偉大な「非現実人」だったし、それには遙かに及ばなくとも現在の社会の中で成功を収めている作家や音楽家等は有能な「非現実人」だと言う事が出来るはずだ。

 (A)の途を拒否し(B)の途に拘り続けた結果、それら二つの途が閉ざされたまま現在に至っている、……というのが私の人生だった。文芸春秋社の懸賞論文で門前払いを喰らって以降、「現実社会」に納得して貰い、自分も納得できる形で世に出ようという試みは何度も何度も繰り返してきた。その度に自分の非力非才を思い知らされて来た。

 失敗に失敗を重ねた挙げ句、最近の私は自分の内に蓄積されている様々な思考を敢えて表現せずに黙って消えていこうと心密かに思い定めるに至っていた。そういう私に(恐らく)最後の勇気を与えてくれたのが「ウエブ進化論」だったのだ。
 「ウエブ進化論」が示してくれている現実社会の動向を「創造する民衆の時代」の視点から読み解いた近未来社会への夢を或る種の「予言」として完成させてみたいと考えている。 


 この「予言」をブログのメインコンテンツとしたいのだが、もう一つ、「予言」の裏側にあって「予言」を支えている私の生活の中から「現実人」の皆さんに伝える意義のありそうな事柄を「非現実人」からの「警告」として書き込み、それらをサブコンテンツとしようと思う。
 記事の全体が自分として納得できるレベルにまで仕上がった段階で現在の認証キーを解除して多くの人々に教えを請いたい。ブログにはコメントやトラックバックという機能がある。出来上がった記事を叩き台として一人でも多くの人と意見の交換をしたい。こういう私の生き方に対する根本的な否定のコメントも予想されるが、それはそれで大歓迎。ただし、それによって私の生き方や考え方が変わる事はあるまい。


 ともあれ、
 それらのコメントやトラックバックを含め、このブログは全体として3〜5年後の日本社会を「予言」するページとして運営していきたい。……まあ、こんな事を本気で考えているという事が「非現実人」の証明のようなものだと言えるのだろうけれど、……非現実ついでに、もう一つの非現実で傲慢な計画を打ち明けておこう。


 このブログは或る程度インターネットの世界に通じている人々を「読み手」「書き手」として想定している。前述したように、そういう人々との対話を通じて様々な事を教えて頂こうと考えているのだが、……その結果によっては、ここで得られた成果を手がかりとして現在に到るまでパソコンさえ持っていない人々にパソコンを扱いこなす近未来の生活を伝導する運動を展開したいと考えている。その為の具体的な方法に関する考察が第3番目のコンテンツになるかもしれない。

 ………………とは言うものの、このブログが成功する事は奇跡のような事としか私自身にも感じられない今現在、このブログの先の事を考えるのはナンセンスも良いところだとしか言えない事は百も承知している訳で、………私としては、やはり、このブログの社会的な意味での成功には拘るべきではないと考えている。失敗しても、それはそれでよい。とりあえず今思うのは「同じ逝くにしても『遺す言葉』は明るく希望に満ちたものにしたい」という事だけだ。

 出来る事なら多くの人々に納得して貰う可能性を他の誰でもない「自分自身」が信じられる力強い「予言」と有益な「警告」の集合体に仕上げたい。それを「遺す言葉」に出来たら思い残す事はない。
 
 

 

 

 

 

創造する民衆の時代        94年2月作成


1 私自身の体験からの提言
2 創造に無関心な人々
3 民衆を呪縛する通念
4 生命と創造
5 個人の中の民衆
6 迫りつつある未来
7 新しい社会へ向けて
8 「専門家」と「民衆」が築く未来

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1 私自身の体験からの提言

 ソ連の崩壊の頃を境として世界の政治経済の構造が根本的なところから大きく変化した
 現在はメガ・コンペティションの時代なのだという。この世界状況は一般的な日本人の日常生活にも大きな変革を要求せずにはいない。外側からの巨大な力が加わって、過去の価値観や生活意識の変更を否応無しに強制される歴史の過渡期に現在の私達は居るのだ。

 このような時期に当たり、過去16年以上に渡って積み重ねられて来た自身の特殊な体験とそれに伴う特殊な知識や技術の可能性を私は強く感じている。
 過去51年の人生はそれらの背景として重要な意味を持つ。
それ故に、困難ではあっても混沌とした両者の関係を表現しない訳にはいかない。それは、この文章の全体を建設的な提言とする為に、どうしても通り抜けねばならない関門なのだ。
 表現の試みを開始してみよう。

 私は昭和18年生まれ。43年に京都市立美術大学(現京都芸大)工芸科を卒業。
同年某大手スーパーの前身となる企業に店舗設計開発を志して入社。約9ヵ月後に適応障害を引き起こし会社に迷惑をかけ止むなく退職。
 以降の10年程の間は、様々な職場を転々としたり各種の宗教団体に首を突っ込んでは喧嘩して飛び出したりという生活が続く。

 そうした状況の中で人間としての自身の心の裏側にある何かについて思い知らされ現実社会や宗教について考えさせられ、最終的にはユングの思想に救いを予感する。34才。 当時の新聞に紹介のあった「心の電話」によって名古屋大学・教育学部の心理相談室を知り、揺籃期を終えて実験段階に入っていた臨床カウンセリングを受ける事になる。
 約2年後に、臨床カウンセリングに対する「創造性開発カウンセリング」を主張し始める。それ以降の14年間は、その主張を巡ってのカウンセラー氏と私の「死闘」が続く。

 しかし最近になって両者の間に弁証法的な解が得られるかも知れないという予感を抱く
 以上、「創造性開発カウンセリング」という私の構想の来歴と現状の概略を記した。この構想の根幹の部分にある「創造に対する民衆の潜在的な能力」という考え方の当否を世に問おうというのが本稿の目的だ。題して「創造する民衆の時代」。暫らくはこの提案の2つのキーワードである「創造」と「民衆」を巡る現代の社会状況を考えてみたい。

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2 創造に無関心な人々

 全ての職業には労働の側面と創造の側面がある。しかし現在の社会常識では、一般に「創造」は限られた立場の人々のみに専有されるのが当然とされている。
デザイナーや画家・作曲家・小説家・建築家・諸科学研究者・それに政治や経済に関わる新しい法制度の作成担当者の人々、等が代表的な例として考えられる。
それらの人々はエリートだ。
すなわち様々な分野に於いて激しい競争を勝抜いて「創造者」として認められた文字通り選ばれた人々なのだ。
それらの極く限られた一部の人々だけが「創造」を職業として生きる事を許される。又、「創造」の重苦を一身に背負わされる。
残された人々はどうするか?
 野に下り、雌伏して創造の場を獲得すべき時を伺う人々もいるだろう。
革新的な作品や企画や計画や政策を胸に秘めて来るべき時が来るのを待っている人々もいるだろう。しかし、それらの人々は隠れたエリートであり、本稿のテーマの対象ではない。

 そうではなくて自分が「創造」と関わろう等とは露ほども思わずに「創造者」の提供する物やサービスを享受するだけの立場に撤している人々をこそ今私は問題にしたいのだ。
 彼等を「民衆」と呼びたい。彼等は今大きく変化しつつあるように私には感じられる。
彼等即ち「民衆」の現状に意識的あるいは無意識的な大きな変化が伺える。
そのような変化を促進し、その結果をフルに活用する事によって拓かれるはずの新しい社会について考えたい。

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3 民衆を呪縛する通念

 先程も述べたように、創造とは芸術・科学等々あらゆる分野に於いて各種の才能と機会に恵まれた特殊な人々にのみ許され求められている特殊な営みだというのが現在の一般的な社会通念だ。しかし私は、このような現在の社会通念は今後大きく変化して、そこから新しい社会通念が生まれてくるに違いないと考えている。そうでなくてはならないと考えている。 これは今後の話の運びにとっても重要なポイントなので以下にそのような考え方の流れを次の3段に分けて表してみたい。
 
 1、前述の社会通念は人間の心の本性に反したものだ。創造という営為は本来あらゆる人々に帰属すべき当然の権利であり義務だ。 
 2、そのような前時代的な社会通念の存在こそが、現在の先進諸国が抱えている全ての困難の根底に横たわる本質的な問題である。
 3、逆に言うなら、先進諸国がそのような本質的な問題に応える事ができれば、諸国が現在抱えている困難の全てはおのずから解決の糸口を見出だす事が出来るはずだ。

 世界の歴史の大きな流れから言って一般民衆の仕事あるいは職業の本質は次々と高度なものへと変化し続けている。
 新しい時代が訪れる度に高度で高付加価値で高収入の新しい職業が提示され、それによって一般民衆の活力は常にリフレッシュされ続けて来た。フォードが革新的な生産システムと給与体系を民衆に提示した事による米国社会の変化はそのような歴史の流れの典型だと言える。
 そうした事実に鑑みれば現代の「労働」を主体とした民衆の職業形態は未来社会に於いて「創造」を主体としたものとなるのが自然であり必然だ。そのような「労働主体」から「創造主体」への職業形態の変化こそ現在の先進諸国の諸問題の本質的な解決の王道だと言われて久しい。然るに現在までの日本および世界の先進諸国の現状はどうか?

 そのような疑問に対しての私の答えが、ここに示した「創造」に関わる現在の一般通念への挑戦だという事になる。
 現在の「民衆」は、そのような通念に呪縛されている「隠された創造者」なのだと私は考えている。その考え方の最も根源的な根拠は私自身の或る実感だ。次節ではそれについて述べたい。
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4 生命と創造

 「創造とは、過去に存在しなかった新しい価値を創り出さずにはいられない生命の営みである」・・・神という存在に関わる議論を抜きにした場合、これが最も根源的な創造の定義なのではないだろうか?
 ともあれ創造という言葉によって直ちに私が思い浮べるのは干上がった水溜まりで、もがき苦しんでいる魚の姿だ。やがて彼は陸に上がる。3億年を遥かに遡る昔に於ける「地球新時代」の旗手の姿だ。彼の姿に私自身の現実を重ねる。

 運命が何故に私を水の外に飛び出させたのかは分からない。しかし最初の企業を出た後の私の生活は「民衆」である自分を自覚し、その事を拒否し続けている「民衆」の生活そのものだった。水の中に戻りさえすれば楽に生きられる。しかし水の中での生活に戻るかどうかの迷いの中で、私は常に「進化」への道を選んだ。何度か出会った池や川や大海を常に拒否し続けた。
 その度に新たに死を意識し直し死への覚悟を定めつつ生きていた。そのような生活は今も続いている。この文章は、そうした「陸地」への個人的な挑戦の一つの手段でもあり経過報告書でもあるのだが、既に述べた挑戦の体験の中で、私は次のような深い実感を抱くようになった。 即ち生命が「進化」の結果として人類を生み出さねばならない理由に対する「悟り」のような実感だ。

 勿論、ここはその「悟り」の 内容を語るべき場ではない。
 しかし、現代人なら誰もが宇宙から送られてくる地球の映像を見た事があるはずだ。暗黒の空間に浮かんでいる青く輝く球体を眺めながら「自分達は皆この星の上に生きているのだ」という感慨を抱いた経験があるはずだ。私の個人的な「悟り」の実感も、そのような感慨の一つであるという事だけは確かに言える。

 前節に於ける断定、即ち「創造という営為は本来あらゆる人々に帰属すべき当然の権利であり義務だ」という感じ方や考え方は、その感慨を根拠としている。
 人は皆、太古の昔から現在に到るまでの全ての生命の一員として、というより旗手として「進化」への抜き去り難い崇高な衝動を持っていると私は思う。それは直ちに人間に於ける「創造」の権利と義務への実感に通ずる。
 この実感は創造する民衆の時代を予感する私にとって最も根本的な立脚点だ。
次節ではこの根源的な実感の上に立って今現在の日本社会に於いて個人が抱えている或る問題について考えたい。

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5 個人の中の民衆

 ここまでの表現の中で「敢えて」行っていた事がある。あたかも全ての人々を「創造者」と「民衆」という2つの群れに明確に区分けするような表現がそれだ。
 言う迄もなくこれは「民衆」と「創造者」という2つの対立する「生活姿勢」を相互に浮かび上がらせる為の方便だ。 勿論、個人には「創造者」と「民衆」という2つの側面がある。現代社会では殆どの人が自分の職場での「創造」を厳しく要求されてさえいる。
 その同じ人が自分の職業分野から離れた事柄に関しては「民衆」そのものなのだ。
 この節では、そのような、個人に於ける「民衆」と「創造者」との関係についての考察を進めたい。

 個人の中での「民衆」と「創造者」との区別が近年は非常に曖昧になり始めている。
 画家である池田満寿夫氏が芥川賞を受賞した時、当時の世間は驚きの声を上げた。
 画家は文学の領域でも「民衆」ではなく「創造者」であり得るという今になって考えてみれば極めて当然の事に驚いたのだ。
 今時は、それに類した事は日常茶飯事だ。専門家の領域が相互に侵犯されつつあると言える。それによって様々な専門領域が活性化された。このような傾向は今後も進展する事はあっても後退する事はないだろう。私が実感するのは、そのような意味での「民衆」の変化だ。過去に於いて一部の専門家の権利であり義務であった「創造」が部外者である「民衆」にも仕事として開放され負荷されつつある。
勿論、現在までのところでは極く一部の非常に有能なエネルギーの有り余った特別の「民衆」が「自発的」に手近な陸地への上陸を開始しているという趣がある。今尚それを特別な人の特別の行為なのだとしか感じず考えない人々が殆どなのかもしれない。

しかし私の考えでは、そうした旧来の一般的社会通念に呪縛されている人々こそ真の意味での「民衆」そのものに他ならない。そのような人々は今のまま自分の池の中で水が干上がるまで泳ぎ回っていれば良いのだと私は言いたい。彼等は今現在の日本および世界を襲いつつあるメガコンペティションという極めて苛酷な試練の時代に必然的に伴う環境変化には耐え得ないだろう。
 それは個人の中の「民衆」を「創造者」へと「進化」させ続ける事を絶えず要求して止まないものだからだ。そこでは一つの池の中での新しい泳ぎ方の「創造」等というレベルの古くて低い創造は通用しない。次節ではそうした新しい日本社会の構造について考えたい。
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6 迫りつつある未来

 現在の日本という国は正しく賢く稼ぐ力は持っている。しかし、その巨大な力に見合うだけの正しく賢く消費する力を持っていない。
 生来の真面目で几帳面な性格に適合する新しい夢や理想に未だ出会っていないからだと私は思う。様々な議論の末に列島改造計画は国民から拒否された。蓄積され続けた貿易黒字は主としてアメリカの夢と理想のお付き合いに使われている。そうこうしている内に世界情勢は変化するし国民の平均年令も高齢化の一途を辿る。

 働き蜂国家は稼ぎの巨大さ故に他国から注目され重要視されている。しかし歳を取って稼ぐ体力が衰えたらどうするか?何を以て他国に伍して行こうというのか? 
 もし日本が現在の厳しい世界状況を逆手に取って、むしろそれをチャンスとして生かして新しい経済発展を遂げようとするのなら今後の日本社会に於いて構成員に要求される「創造」は現在とは次元の異なるものになる他はない。
 だからこそ現在の社会の限界を突き抜ける新たなる高度成長が可能になるのだ。
 その社会に属する個人に高度な収入を約束する事が出来るのだ。
 しかし、その場合に近未来の日本社会の果たす高度成長は企業戦士を鼓舞し突撃を繰り返していた最近までの日本のそれとは異なる原理に基づくものになるに違いない。
 それに呼応して個人の生活の在り方も「創造」も過去とは次元の異なるものになるのも又当然だろう。

 そうした国家や社会や組織の在り方と、それに対応すべき個人の在り方に関する私見を極く手短に述べたい。どう考えても他に適切な表現方法が思い浮かばないので次のような私自身の体験に即して敢えて本当に敢えて語ってみよう。

 今回の応募に際して私は集中して6万円以上の経済関係の雑誌と書籍を買い集め読み耽った。同様の人々が全国に多数いるのではないだろうか? これは一つの経済効果だ。この企画がなければ生まれなかった消費なのだ。一方これは私自身にとっては6万円の投資だ。万一入選すれば幾許かの稼ぎになる。
 確かに当初の考えはそうだった。けれども今はそんな事はどうでも良い。
 今回の読書と著述への試みそれ自体が私にもたらした効果は自分にとって既に莫大なものになっているという感じがあるからだ。自分自身の今後の資産運営に対する大きな筋道を見出だしたからだ。

 以上、要するに私がイメージしているのは、この企画の精神を更に発達させ施行技術を強化し洗練させた大規模な国家運営なり組織運営の在り方だ。最近になって急激な成長を見せているマルチメディアを駆使すれば可能な手段は幾らでも考えられる。
 私自身の個人的な体験から推量すれば、それによって得られる消費力は莫大なものであるはずだ。しかもそれは明らかに健全で建設的な消費なのだ。そのような未来の社会の在り方を私は求めている。
 しかし、それを実現して行くには幾つかの関門を通り抜けなければならないだろう。その点について次節で考えてみたい。

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7 新しい社会へ向けて

 現在の日本では将来の在るべき社会構造の設計図を巡って「創造者」を自認する専門家とそこから阻害されている「一般民衆」との冷え冷えした関わりが定着しかかっているように感じられてならない。いわゆる規制緩和の問題をクリアーする事が将来の日本を築いていく上で如何に厄介な関門であるかを痛感させられている。この問題に関係する全ての専門家が「創造者」として様々な設計図を描いてみせているのに結局は受け手としての私自身を含めた「民衆」を今だに説得しきれていないのは何故なのかと私は訝しく思う。それはあたかも適齢期を迎えた女性の複雑微妙な心を理解できずに闇雲に言い寄っては撥ねつけられているヤボな男達の群れを見るような感じだ。この例えに即して述べるなら問題の本質は次の点にあると言えるだろう。

 即ち、それぞれの男達が建前は別として本音では「俺を信じて黙って付いてこい」としか思っていない所に現状に問題の根がある、と私は思う。「民衆」とてそんな本音はとっくに見抜いている。にも関わらず双方が不誠実な馴れ合い芝居を続けなければならない。こうした点については現実の若者達の男女関係の方が悠かに先を行っている。

 或る意味で専門家はもっと謙虚に身軽になるべきであり「民衆」はもっと自信と責任感を持つべきだと私は思う。若い人々の男女関係を見習うべきなのではないかと思う。

 現在の科学技術の進歩は凄まじい。極端な事を言うなら各家庭に電話線を通じた専用機器を設置する事によって、ボタン一つで全国民の最終決断を仰ぐ事等は至って容易な事だ。それを不可能にしているのは結局「民度」に関わる不安に尽きる。

 そして、それは極めて当然の不安だ。
 「民衆」は余りにも国政運営の現場を知らなさ過ぎる。知る為の基礎知識も時間も精神的ゆとりも意欲もない。まるで封建時代の女性のようだ。現在のあらゆる現実状況が、その事を当然としている。しかし、その点に於いて日本には大きな変化への可能性が潜んでいるはずだと私は思う。そこのところを是非なんとかしたいものだ。

 以上に述べたように例えば規制緩和の問題一つとっても日本国民は今夜明け前の状態にいる。現在の日本国民は今「進化」を迫られている。そうした状況に対して人々は「進化」を成し遂げ得る力を既に十分に貯えていると私は感じている。経済的にも文化的にも「進化」の直前にあるのが現在の日本国民なのだと感じている。その事を是非とも理解してもらいたい。これは進化を志す「民衆」としての私がなし得る「創造者」への精一杯の提言だ。
次に以上の問題提起を受けた解決への基本策を示して本稿のまとめとしたい。

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8 結語 「専門家」と「民衆」が築く未来
 16年以上もの年月に渡って私は心理学の巨大で貴重な機能を享受するだけの「民衆」であり続けた。「民衆」の心の根本の部分には専門家に対する全面的な依存があり甘えがある。そのような依存や甘えの上に専門家の現実に対する不満や嫉みや自分なら更に上手く処理してみせるのにというような傲慢な心理もある。これらは心理学の「民衆」である私自身が誰よりも深く実感している事だ。その実感に立った上で尚、心理学の専門家の人々に提言したい事がある。しかしこれは何も心理学の専門家だけに限らず現在の日本の専門家の全てに対する提言になるはずだと私は思っている。更に続けるなら、この提言それ自体が専門家に対する「民衆」の依存、甘え、嫉み、自惚れ、そのものなのかも知れないとも思う。
 ともあれ、現在の私は今回の提言の根拠として心理学を巡る自身の体験しか持ち合わせていない。だから以降の提言は単に心理学の専門家に対するものではなく、それを一つの実例とした全ての専門家に対しての「創造」を志す「民衆」からのものとして理解される事を切に望んで止まない。
 さて、自身が受けた非常な恩恵にも関わらず現在の心理学の専門家の人々は、例えば余りにも経済問題にうと過ぎると私は主張したい。これは建築や音楽や政治や経営その他何でも構わないのだが、例えば経済問題を自身の専門領域と結びつけた新しい心理学の「創造」等は思い付きもしない。一部の人々がそれを志そうとしても卑しいとか無謀とかいった一言の下に撥ねつけられるのが特に臨床心理の専門家集団の大勢だ。

 16年の自身の体験から少なくとも私はそう感じている。「民衆」を自身の専門領域からしか扱おうとしないし理解しようとしないのだ。「民衆」の底に潜んでいるはずの無限の莫大な知恵やエネルギーを探し求めようとは思いもしない。
 もし、こうした現状を変える事が出来たなら心理学は思いもよらない新しい鉱脈を発見し、それによって思いもかけない新しい世界を切り拓く事が出来るに違いないと私は確信している。そして先程も述べたように、これは心理学に限らず全ての分野の民衆と専門家の関わりの変革を通じて生ずる日本の未来に対しても言える事だとも私は確信している。

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